花は紅

生きづらさを抱える人間が森田療法を実践するブログ

森田療法と私

私が森田療法を知ったのは、今からちょうど1年前の2015年12月のことである。

当時の私は、不安や嫉妬、利己的な考えに非常に苦しんでおり、それらをどうにか取り除こうと必死にもがいていた。
Twitterでしきりに「どうして私はこんなに醜い感情ばかり抱いてしまうのか」、「こんな感情を抱いてしまう自分自身が嫌だ」、「我執が捨てられず苦しい」と呟いていた私に、あるフォロワーさんが森田療法を紹介してくれたのである。

森田療法」という名前は聞いたことがあったが、実際にそれがどういう療法なのか、私は全く知らなかった。
「我執の病理」という北西憲二先生の本が、私が最初に手に取った森田療法の本である。
我執の人(=肥大した自己愛の人)の特徴について詳しく書かれており、「これは私の説明書だろうか」と思うほど、それは自分によく当てはまるものだった。

それから私は、森田療法にどんどんのめり込んでいった。
今年の1月に「自覚と悟りへの道―神経質に悩む人のために」という本を読んだときの感動と解放感は、今でも忘れない。

不安、恐怖、嫉妬、怒り、羞恥、寂しさ……
上記のような、世間一般で「悪」と見なされている感情は、実は悪でも何でもない。
そもそも感情には善も悪もなく、浮かんでくる感情はすべて自然であり、必要なものである。
人間が自然を自由自在に制御することはできないように、感情も自分では制御できないものなのだ。

制御できないものを、制御できるはずだと思い込み、制御しようとする。
この「不可能を可能にしようとする」努力こそ、私の苦しみの根源であったのだ。

自力で空を飛べるようになろうと努力する人間を見たら、「そんなことできるはずがない」と誰でも思うだろう。
だが、「集中力を高める」だの、「意志を強くする」だの、「不安や恐怖を消す」だの、感情面の努力についてはどうだろうか。
頑張れば集中力は高められるし、意志を強くできるし、不安や恐怖を消すことができると思っている人は多いのではなかろうか。
(事実、私も森田療法を知るまではそう思っていたのだ)

森田療法を学んでも、不安は取り除けないし、嫉妬もするし、寂しさは依然としてあり続ける。
けれども、そういう気持ちを抱えたまま、充実した、建設的な人生を歩むことができるようになる。

私は家にいるとどうにもだらけてしまい、ブログのような長文を書くことがなかなかできない。
しかし、そんな自分を意志の力でどうにかしようとは思わない。
「自分にはそういう傾向がある」ということをただ認めて、「家で書けないのなら外で書けばいい」と、今、近所のカフェでこのブログを書いている。

集中力や意志の強さを自分で変えることはできないが、環境や行動は自分で変えることができる。
これも森田療法の実践の1つ。

このブログでは、日々森田療法を実践していくなかで感じたことなどを主に書くつもりである。
また、森田療法以外にも、生きづらさからの解放につながるもの、自分がいいなと思ったものについては積極的に書いていきたい。