花は紅

生きづらさを抱える人間が森田療法を実践するブログ

カウンセリング内容のまとめ

先日、森田療法のカウンセリングに行ってとてもスッキリしたため、カウンセリングの内容について簡単にまとめてみたいと思います。
私の悩みの性質上、「異性との肉体関係について」という内容が若干含まれていますので、大丈夫な方のみ閲覧してください。

そもそも、なぜ森田療法のカウンセリングに行っているのか?

私は中学生の頃から「異性に好かれると気持ち悪くなる」という症状を持っており、まともな男女交際を全くと言っていいほどしてきませんでした。
こちらから好きになった男性は今までの人生で数人いましたが、全部ふられました。
そのため、「こちらから好きになった人」との交際経験は一度もありません。
「向こうから好きになってくれた人」と付き合ったことは何度かありますが、大体1か月以内に別れています。
付き合う前は「いい人だな」と思っていても、いざ付き合うとなると生理的な嫌悪感がものすごいのです。
手を繋ぎたくないどころの話ではなく、一生顔も見たくないというレベルの嫌悪感。
私は「いつかは結婚したいな」と考えているので、この「異性に好かれると気持ち悪くなる」という症状をどうにかしなければと思い、昨年の夏からカウンセリングに通い始めました。
(このような悩みにも森田療法は適用できるのか?と事前に相談したところ、適用範囲内ですよとのお返事をいただきました)

今回のカウンセリングで相談したこと

実は、先月の半ば頃から一応彼氏ができたのですが、案の定生理的な嫌悪感が火山の噴火レベルで湧き上がり、非常に悩んでおりました。
できることなら今すぐにでも別れたい、そして一生顔も見たくない。
でも、ここで別れてしまったらいつものパターンの繰り返しだ!
別れた後に「もっと我慢すればよかった」と後悔したくない。
それに感情は流れるものだから、この気持ち悪さも我慢していればいつか流れるかもしれないじゃないか。
…こんな感じで、毎日のように「別れたい自分」と「別れちゃだめだ」と止める自分が喧嘩をしていて、苦しかった。
カウンセリングでは、大体以下のようなことを先生に相談いたしました。

・彼氏ができたものの、とにかく生理的な嫌悪感が激しく、会いたくないし顔も見たくない。
・でも、我慢していればこの気持ち悪さが消えるんじゃないかと思うと、別れられない。
・もしこのまま我慢して彼と付き合い続けた場合、いずれ肉体関係を求められるかもしれないが、その場合はどんなに嫌でも応えるべきなのか。(しかし、先生に「応えるべきだ」とアドバイスされても応えられない自信があった)

カウンセリングで先生からもらったアドバイス

私の悩みを先生は冷静に聞いてくださり、以下のようなアドバイスをくださいました。
「あなたは異性が気持ち悪いという"症状"にばかり目が行ってしまって、本来の目的である"結婚"が頭から抜け落ちていますね。結婚することが目的で異性と付き合うのに、"どうやったら異性が気持ち悪くなくなるか"ということばかりに気を取られている。異性が気持ち悪いのは、あなたの症状なのでどうにも仕方がないです。その気持ち悪さはひとまず置いておいて、彼が結婚に相応しい相手なのかどうか、そういうことに目を向けたほうがいいんじゃないですか」

…このアドバイスを受けて、私ははっとしました。
不安はそのままにしておいて、なすべきことをなす。
これが森田療法の基本です。
私は「異性が気持ち悪い」という不快感情に注意を向け、この感情がどうやったら消えるのかということばかり考えていました。
"結婚相手を見極めるための交際"が、"気持ち悪さをなくすための実験"に変わってしまっていたのです。
典型的な「気分本位」です。
私の本当になすべきことは、「この人は信頼できる相手だろうか?結婚に相応しい相手だろうか?」というのをきちんと見極めることであり、それこそが「目的本位」な生き方でした。

「気持ち悪さは置いておいて、結婚に相応しい相手かどうかという観点で彼を見たとき、どう思いますか?」
もちろん彼にはいいところもありますが、何となく信頼が置けないような、気になる点もたくさんありました…。
基本的な生活リズムの違いや、価値観の違いも結構ある。
はっきり言って結婚生活がまったく想像できなかった。

そのことを先生に伝えると、「信頼できない相手と肉体関係なんて持てないですよね。だからあなたが"この人とは肉体関係を持てない"と思うのも至って普通です」
そうか、肉体関係は"信頼"があってこそ成り立つものなのか…。
私はそんなことすらよくわかっていなかった。
ひたすら我慢していればいつか大丈夫になるものなのかな、という「もはや修行じゃねーか!」とツッコミを入れたくなるようなネガティブなイメージを肉体関係に抱いていたのです。

そもそも、肉体関係を持つということは「その人との間に子供ができるかもしれない」という可能性も含んでいます。
(いくら避妊をしても、100%大丈夫ということはないので)
信頼できない相手と肉体関係を持つことは、自分も、生まれてくる子供も不幸になるかもしれない可能性を背負い込むということ。
「神経質は自分に対する安全弁が鋭敏すぎる」と森田先生が言っていましたが、異性に対する激しい嫌悪感は、もしかしたらこの「鋭敏すぎる安全弁」が働いているせいかもしれないなぁ…と考えたりしました。
これは完全に私の意見なので、間違っているかもしれませんが(^▽^;)

はからいを棄て、自然に任せる。神に任せる。

感情というものは、そのままにしておけば自然と自己保存に適した状態に導いてくれる。
うろ覚えですが、こんな言葉を森田療法の本で読んだことがあります。
私の異性に対する「気持ち悪さ」も、私が生きていくために必要だからこそ湧いてきた自然な感情なんだと思います。

怒ったり悲しんだり落ち込んだりするのは、不快な感情です。
できることなら、いつも平穏な、喜びに満ちた感情で過ごしたいと誰もが思うでしょう。
しかし、怒りも悲しみも、そうなるべき状況が揃ったときに自然と湧いてくる感情です。
そしてよくよく考えてみれば、怒りや悲しみも自己保存のためには必要な、欠かすことのできない感情なのです。

どんなに理不尽な扱いをされても全く怒らない人がいたとしたら、どうでしょう。
理不尽な扱いをされても怒りが湧かないということは、自分の身を守る安全弁がまったく働いていないということです。
そんな人が、この社会を生き延びていくことが果たしてできるでしょうか?

自分の子が死んでも全く悲しくない親がいたとしたら、どうでしょう。
愛情があれば、そこには必ず失う悲しみがあります。
愛情だけを残して、悲しみだけを取り去ることはできません。
これが「自然の法則」です。
失う悲しみがあるからこそ、親は子供を大切に大切に育てるのです。
もし子供が死んでも悲しくないのであれば、親は子育てという大仕事を途中で放り出してしまうことでしょう。

ちょっと例が極端すぎたかもしれませんが、怒りも悲しみもすべて、自分を守るため、自分の大切な人を守るために必要だからこそ湧いてくる自然な感情なのです。
人間(特に神経質の人)は、この感情をやりくりしようとします。
怒りも悲しみも不快だから、「こんなことで怒らない人間になりたい」、「こんな小さなことで落ち込まない人間になりたい」と自分の感情を自分の思うままに操ろうとします。
これが「はからい」です。
絶対に抗うことのできない「自然の法則」に勝負を挑んでいるのです。
怒りを楽しさに、悲しみを喜びに変えることはできないのです。
怒りは怒りでしかないし、悲しみは悲しみでしかない。
それが「あるがまま」。
そして、この「あるがまま」の感情に乗っかって生きることが、実は一番安全であり楽なのです。

森田療法ではこれを、「自然に服従する」と言います。
キリスト教では、「自然」のことを「神」と呼ぶでしょう。
ちっぽけな自分のはからいを棄てて、神に従う。神に委ねる。
森田療法キリスト教は、なかなか通じるところがあるのです。

夏目漱石が晩年に理想とした境地といわれる「則天去私(そくてんきょし)」は、ものすごく森田療法的な考え方だなぁと思います。
この言葉は、「天に則り私を去る」という意味です。
小さな私にとらわれず、身を天地自然にゆだねて生きていくということ。
「則天」は、天地自然の法則や普遍的な妥当性に従うこと。
「去私」は、私心を捨て去ること。

頭でっかちの人ほど、この生き方をすることが難しいものです。