花は紅

生きづらさを抱える人間が森田療法を実践するブログ

悪いことは必ず起きる

今日思ったことをつらつらと書きます。

あなたの隣人を愛するように、あなた自身を愛しなさい

クリスチャンであれば「逆だろ!?」とつっこみたくなると思いますが、これでいいのです。
私は常日頃「私は本当に自分のことしか考えていない奴だなぁ」と思いながら生きているのですが、その割に自分自身を愛していません。
自分のことで頭がいっぱいだけど、自分を愛していない。
以前から気づいてはいたのですが、今日改めてこのことを実感したので、ちょっと書いておきます。

今日は仕事で少し注意を受ける場面がありました。
仕事の帰り道はもちろん、注意されたことを繰り返し思い出しては涙目になり、頭の中で自分に対してこんな台詞を吐いていました。

「どーせおまえはバカなんだから、何やったって無理なんだよ」

この台詞を自分に投げつけた瞬間、「あ、私って自分に対してこんな言葉を浴びせているんだな」と急に冷静になりました。
もし友人が「仕事で失敗をした」と打ち明けてくれたら、こんな台詞をぶつけるだろうか?
いや、絶対に言わない。
人に嫌われたくないから相手を傷つけない、という自己中心的な気持ちがあることは認めます。
しかし、落ち込んでいる友人を慰めたいという気持ちも、もちろんあるのです。
その優しさが、自分に対してはまったく向けられていない。
まぁ、更に心の奥底を覗いてみれば、「友人の失敗は許せるけれど、自分の失敗は許せない(他人は不完全でもいいけど、自分は常に完璧な人間でありたい)」という欲望も潜んでいるとは思います。
しかし今日は純粋に、「落ち込んだ友人にかけるような言葉を、自分自身にもかけるようにしたらいいんだよなぁ」と思いました。

悪いことは必ず起きる

「本当の勇気は『弱さ』を認めること」という本を読み始めたのですが、その本に以下のような文章がありました。

…それでも喜びを受け入れ、喜びの瞬間に身をゆだねるたび、回復力と希望がはぐくまれているのである。
喜びは私たちの血肉となり、悪いことがあったときに(それは必ず起きるのだが)対処できる、より強い自分になっているのだ。

私はこの文章の(それは必ず起きるのだが)というカッコ書きを読んだ瞬間、ものすごくほっとしました。
そうか、悪いことは必ず起きるんだ。逃げられないんだ。だから頑張って逃げようとしなくていいんだ……。

うろ覚えですが、「極楽を求めて地獄に苦しむ」という言葉があります。
極楽という「得られないもの」を求めることで、かえってそれが得られないという地獄の苦しみを味わうことを指すのでしょう。
私も同様に、未来の安楽という得られないものを求めてしまい、かえって現在を楽しめなくなっている。
「悪いことなんて起きない。私はきっと大丈夫」という風に自分に暗示をかけようとすると、私の場合はかえって不安が大きくなってしまう…。

悪いことはどんなに手を尽くしても起きるんだから、あえて逃げようとしなくてもいい。
こういう考え方のほうが案外楽になるもんだなぁと個人的には思います。
(それでも悪いことから逃げたくなるのが人情というものですが)

カウンセリング内容のまとめ

先日、森田療法のカウンセリングに行ってとてもスッキリしたため、カウンセリングの内容について簡単にまとめてみたいと思います。
私の悩みの性質上、「異性との肉体関係について」という内容が若干含まれていますので、大丈夫な方のみ閲覧してください。

そもそも、なぜ森田療法のカウンセリングに行っているのか?

私は中学生の頃から「異性に好かれると気持ち悪くなる」という症状を持っており、まともな男女交際を全くと言っていいほどしてきませんでした。
こちらから好きになった男性は今までの人生で数人いましたが、全部ふられました。
そのため、「こちらから好きになった人」との交際経験は一度もありません。
「向こうから好きになってくれた人」と付き合ったことは何度かありますが、大体1か月以内に別れています。
付き合う前は「いい人だな」と思っていても、いざ付き合うとなると生理的な嫌悪感がものすごいのです。
手を繋ぎたくないどころの話ではなく、一生顔も見たくないというレベルの嫌悪感。
私は「いつかは結婚したいな」と考えているので、この「異性に好かれると気持ち悪くなる」という症状をどうにかしなければと思い、昨年の夏からカウンセリングに通い始めました。
(このような悩みにも森田療法は適用できるのか?と事前に相談したところ、適用範囲内ですよとのお返事をいただきました)

今回のカウンセリングで相談したこと

実は、先月の半ば頃から一応彼氏ができたのですが、案の定生理的な嫌悪感が火山の噴火レベルで湧き上がり、非常に悩んでおりました。
できることなら今すぐにでも別れたい、そして一生顔も見たくない。
でも、ここで別れてしまったらいつものパターンの繰り返しだ!
別れた後に「もっと我慢すればよかった」と後悔したくない。
それに感情は流れるものだから、この気持ち悪さも我慢していればいつか流れるかもしれないじゃないか。
…こんな感じで、毎日のように「別れたい自分」と「別れちゃだめだ」と止める自分が喧嘩をしていて、苦しかった。
カウンセリングでは、大体以下のようなことを先生に相談いたしました。

・彼氏ができたものの、とにかく生理的な嫌悪感が激しく、会いたくないし顔も見たくない。
・でも、我慢していればこの気持ち悪さが消えるんじゃないかと思うと、別れられない。
・もしこのまま我慢して彼と付き合い続けた場合、いずれ肉体関係を求められるかもしれないが、その場合はどんなに嫌でも応えるべきなのか。(しかし、先生に「応えるべきだ」とアドバイスされても応えられない自信があった)

カウンセリングで先生からもらったアドバイス

私の悩みを先生は冷静に聞いてくださり、以下のようなアドバイスをくださいました。
「あなたは異性が気持ち悪いという"症状"にばかり目が行ってしまって、本来の目的である"結婚"が頭から抜け落ちていますね。結婚することが目的で異性と付き合うのに、"どうやったら異性が気持ち悪くなくなるか"ということばかりに気を取られている。異性が気持ち悪いのは、あなたの症状なのでどうにも仕方がないです。その気持ち悪さはひとまず置いておいて、彼が結婚に相応しい相手なのかどうか、そういうことに目を向けたほうがいいんじゃないですか」

…このアドバイスを受けて、私ははっとしました。
不安はそのままにしておいて、なすべきことをなす。
これが森田療法の基本です。
私は「異性が気持ち悪い」という不快感情に注意を向け、この感情がどうやったら消えるのかということばかり考えていました。
"結婚相手を見極めるための交際"が、"気持ち悪さをなくすための実験"に変わってしまっていたのです。
典型的な「気分本位」です。
私の本当になすべきことは、「この人は信頼できる相手だろうか?結婚に相応しい相手だろうか?」というのをきちんと見極めることであり、それこそが「目的本位」な生き方でした。

「気持ち悪さは置いておいて、結婚に相応しい相手かどうかという観点で彼を見たとき、どう思いますか?」
もちろん彼にはいいところもありますが、何となく信頼が置けないような、気になる点もたくさんありました…。
基本的な生活リズムの違いや、価値観の違いも結構ある。
はっきり言って結婚生活がまったく想像できなかった。

そのことを先生に伝えると、「信頼できない相手と肉体関係なんて持てないですよね。だからあなたが"この人とは肉体関係を持てない"と思うのも至って普通です」
そうか、肉体関係は"信頼"があってこそ成り立つものなのか…。
私はそんなことすらよくわかっていなかった。
ひたすら我慢していればいつか大丈夫になるものなのかな、という「もはや修行じゃねーか!」とツッコミを入れたくなるようなネガティブなイメージを肉体関係に抱いていたのです。

そもそも、肉体関係を持つということは「その人との間に子供ができるかもしれない」という可能性も含んでいます。
(いくら避妊をしても、100%大丈夫ということはないので)
信頼できない相手と肉体関係を持つことは、自分も、生まれてくる子供も不幸になるかもしれない可能性を背負い込むということ。
「神経質は自分に対する安全弁が鋭敏すぎる」と森田先生が言っていましたが、異性に対する激しい嫌悪感は、もしかしたらこの「鋭敏すぎる安全弁」が働いているせいかもしれないなぁ…と考えたりしました。
これは完全に私の意見なので、間違っているかもしれませんが(^▽^;)

はからいを棄て、自然に任せる。神に任せる。

感情というものは、そのままにしておけば自然と自己保存に適した状態に導いてくれる。
うろ覚えですが、こんな言葉を森田療法の本で読んだことがあります。
私の異性に対する「気持ち悪さ」も、私が生きていくために必要だからこそ湧いてきた自然な感情なんだと思います。

怒ったり悲しんだり落ち込んだりするのは、不快な感情です。
できることなら、いつも平穏な、喜びに満ちた感情で過ごしたいと誰もが思うでしょう。
しかし、怒りも悲しみも、そうなるべき状況が揃ったときに自然と湧いてくる感情です。
そしてよくよく考えてみれば、怒りや悲しみも自己保存のためには必要な、欠かすことのできない感情なのです。

どんなに理不尽な扱いをされても全く怒らない人がいたとしたら、どうでしょう。
理不尽な扱いをされても怒りが湧かないということは、自分の身を守る安全弁がまったく働いていないということです。
そんな人が、この社会を生き延びていくことが果たしてできるでしょうか?

自分の子が死んでも全く悲しくない親がいたとしたら、どうでしょう。
愛情があれば、そこには必ず失う悲しみがあります。
愛情だけを残して、悲しみだけを取り去ることはできません。
これが「自然の法則」です。
失う悲しみがあるからこそ、親は子供を大切に大切に育てるのです。
もし子供が死んでも悲しくないのであれば、親は子育てという大仕事を途中で放り出してしまうことでしょう。

ちょっと例が極端すぎたかもしれませんが、怒りも悲しみもすべて、自分を守るため、自分の大切な人を守るために必要だからこそ湧いてくる自然な感情なのです。
人間(特に神経質の人)は、この感情をやりくりしようとします。
怒りも悲しみも不快だから、「こんなことで怒らない人間になりたい」、「こんな小さなことで落ち込まない人間になりたい」と自分の感情を自分の思うままに操ろうとします。
これが「はからい」です。
絶対に抗うことのできない「自然の法則」に勝負を挑んでいるのです。
怒りを楽しさに、悲しみを喜びに変えることはできないのです。
怒りは怒りでしかないし、悲しみは悲しみでしかない。
それが「あるがまま」。
そして、この「あるがまま」の感情に乗っかって生きることが、実は一番安全であり楽なのです。

森田療法ではこれを、「自然に服従する」と言います。
キリスト教では、「自然」のことを「神」と呼ぶでしょう。
ちっぽけな自分のはからいを棄てて、神に従う。神に委ねる。
森田療法キリスト教は、なかなか通じるところがあるのです。

夏目漱石が晩年に理想とした境地といわれる「則天去私(そくてんきょし)」は、ものすごく森田療法的な考え方だなぁと思います。
この言葉は、「天に則り私を去る」という意味です。
小さな私にとらわれず、身を天地自然にゆだねて生きていくということ。
「則天」は、天地自然の法則や普遍的な妥当性に従うこと。
「去私」は、私心を捨て去ること。

頭でっかちの人ほど、この生き方をすることが難しいものです。

そのありのままでよいのである

主のご復活おめでとうございます!

本日、4月16日は復活祭でございます。
森田療法のことをメインに書いているブログですが、今日はキリスト教についてちょっと書いてみたいと思います。
(私はカトリック教会で洗礼を受けたクリスチャンです)

昨日の復活徹夜祭で、新受洗者さんの代母(洗礼式に立会い、神に対する契約の証人となる役割の者)をつとめさせていただきました。
洗礼式の前に受洗者の方とお話をしたのですが、やはり色々と悩んだ末に教会に来られたようで、「自分を根本から変えないといけないと思って教会に来た」というようなことを仰っていました。

私が教会に行くようになったきっかけも同じでした。
自分という人間が嫌で嫌で仕方なくて、とにかく自分の性格の悪さを矯正したいという気持ちでした。
信仰を得て楽になりたい、苦しみから解放されたい、という気持ちもあった。

私はヒネクレ者のため、神様を心から信じるという段階にはまだ至っておりません。
祈りもめんどくさくてすぐやめてしまう。
それでも何とか2年間教会からは離れずにいて(しんどくて行かなくなる時期も結構ありますが)、キリスト教森田療法をウロウロしています。

……で、私が洗礼を受けて教会に通うようになって、根本から変わることができたかというと、はっきり言って全然変わっておりません。
「いや、少しくらいは善良な人間になったでしょ!?」と質問されたとしても、胸をはって「まっっったく善良になっておりません!!」と答えられるくらい変わっていません。
相変わらず欲深く、妬み深く、「こんなに苦しんでいるのは私だけなんだ」と自分をかわいそがって人を羨みます。
ちょっとしたことでイライラします。
最低な発言ですが、嫌いな人に対しては「こいつが死んでくれたらどんなにいいか」とまで考えます。
いつでも自分が一番になりたいです。
不安や悩みを受け止めるなんてできなくて、「どうにかしてこの不安を消さなくては」ととらわれまくる毎日です。

唯一変わったのは、「でも、このどーしようもない自分でいるしかないんだ、この自分が自分なんだ」と、ようやく渋々認めることができるようになってきた…ということです。
今でも変えたいところは山のようにありますが、自分のすべてが嫌いかというと、そうでもありません。
いつもくよくよ悩みながらよく生きてるじゃないか、という気持ちもある。

だから、「洗礼を受けても、根本は変わらないんですよ!」と受洗者さんに正直に言ってしまった。
「でも、私が一番キリスト教から感じるメッセージは、『そのままでいい、そのままのあなたでいい』ってことなんです。だから、自分という人間は変わらないけど、前よりは自分を受け入れられるようになってきた気がする」
そんなようなことを受洗者さんに伝えました。
このメッセージは正直、キリスト教よりも森田療法から感じたメッセージかもしれない。
でも、神様も、私たちが善人であることなんて求めてないだろうなと思う。
福岡伸一さんの本で「遺伝子はダメなあなたを愛してる」という本がありますが、遺伝子を神様に変えるととてもしっくりくる。
「神様はダメなあなたを愛してる」なんです。たぶん。

まぁ、だからといって「ダメな私のままでいいんだ~~!」と解放されて心が楽になるなんてことはありません(笑)
「あぁぁ~~こんな自分はいやだ~~~」とうじうじ悩みながら、でもそんな自分でいるしかない、これ以外の自分にはなりようがないと仕方なしに生きていく感じですかね。

自分を曲げて我慢すること

最近、たかのてるこさんという方の本にハマっております。
たかのさんは世界中を旅して、旅についてのエッセイ本を書いていらっしゃるエッセイストです。

私は森田療法のカウンセリングに通っているのですが、その先生がブログでたかのさんの本を紹介しており、「普段は全然読まない系統の本だけど、先生が紹介しているのなら読んでみるか」と、軽~い気持ちで図書館で借りてみたのです。
私が読んだのは、「ガンジス河でバタフライ」と「ダライ・ラマに恋して」という2冊。
いかにも明るい感じのエッセイという感じで、私は旅行にもそんなに興味がないし、つまらなかったら途中で読むのをやめればいいや~という超期待度の低い状態で読み始めたのですが……気づけば夢中でページを捲っている自分がいました。

ただの明るい紀行本かと思いきや、自分を見つめ、人生を見つめ、宗教にも触れている。
本を読む前は、「自分とは正反対の、明るくてコミュ力の高そうな著者だなぁ。価値観違いすぎて読んでも楽しめなそう…」という先入観を抱いていましたが、実際に読んでみると、たかのさんの考え方に共感できる部分がものすごく多い。
そして、読み終わったらもうすっかり「絶対!海外旅行に行く!!」という気分になっていたのでした。

さて、タイトルの「自分を曲げて我慢すること」ですが、「ダライ・ラマに恋して」に出てきた言葉です。
たかのさんが過去の失恋を思い返す場面で、「自分を曲げてガマンしたところで結局ストレスをためるだけで、私のためにも相手のためにもなっていなかった」という一文があります。
私はこの部分を10回くらい読み返しました。
なぜなら、同じようなことをカウンセリングの先生からも、最近悩み相談に乗ってくださった方からもアドバイスされたからです。

私は中学生の頃から、「異性に好かれると途端に相手が嫌いになる」という現象に悩まされています。
そのため、異性とまともに付き合ったことが一度もありません。
デート1~2回が我慢の限界です。
ネットで検索すると、この現象に悩んでいる方(特に女性)はかなり多いようです。
(こう書くと私が異性にモテるように見えるかもしれませんが、実際はモテません。こちらから好きになった人には悉くフラれ続けています)

もうすぐ30歳になるというのにさすがにマズイぞと、去年から森田療法のカウンセリングを受けることにしたわけです。
先月のカウンセリングで私は、「異性から連絡がくるだけでも嫌。本当にイライラします」と先生に話しました。
「なぜイライラするんですか?」と先生から聞かれた私は、イライラの原因を少し考えてから、「大抵、興味がない場所に誘われるから。無理して行くのが苦痛です」と返しました。

「行きたくないのなら行かなければいいんじゃないでしょうか」と先生。

「でも、私が行きたい場所には着いてきてもらうんだから、ワガママは言えない。我慢しないと」
「行きたくないときに『行きたくない』と正直に伝えるのはワガママなんですか?」
「ワガママだと思います」
「ふむ。別にワガママは悪いことではないと思いますが…。では、なぜワガママを言ってはいけないんですか?」
「ワガママだと相手から嫌われます」
「相手のことが嫌いなのに、嫌われるのはイヤなんですか」
「……そうです」
「つまりあなたは、いつも我慢して行きたくない場所に行って、自分の本当の気持ちは抑えているんですね」
「はい」
「だからあなたは、『異性と付き合う=我慢すること、自由がなくなること』だと思ってる。それが異性へのイライラや嫌悪感に繋がっているのではないですか」

ああ~~、そうかも。そうかもしれない。いや、絶対そうだ……。
私は昔から「誘われた場所に行かないのはワガママだ」と本気で信じていて、どんなに行きたくない場所でも、さも行きたいような素振りで出かけていました。
当然、出かけたあとはどっと疲れます。
「こいつのせいで楽しい休日がつぶれた」と、何とも理不尽な怒り・恨みを相手に抱いたりもしました…。

要するに、「ワガママを言ってはいけない」という「かくあるべし」にとらわれていたわけです。
人から良く思われたい、好かれたいという欲望が強すぎることが原因だろうと思います。
もちろん、こんなことをしても自分が疲れるだけだし、相手にも「この子はこういう場所に行くのが楽しいんだ!」と誤解させてしまったことでしょう。
そのうえ、私に理不尽な怒りや恨みまで抱かれ、相手からしてみればたまったもんじゃありません(-_-;)

自分を曲げてガマンしたところで、結局ストレスをためるだけ。
自分のためにも相手のためにもならない。
当たり前すぎるくらい当たり前のことかもしれませんが、私はこの当たり前のことに30年近く気づいていなかったのでした。
むしろこれとは真逆に、「自分の我慢が足りないから、いつも異性と付き合えないのだ。嫌だと思っても逃げずに、もっと我慢しなくては……」と本気で考えていました。
もう、「異性と付き合う=修行!苦行なんだ!!」という気持ち。

ダライ・ラマに恋して」のラストで、たかのさんとダライ・ラマが面会する場面があります。
たかのさんがダライ・ラマに、「生きていくうえで、一番つらいことは何だと思いますか?」と質問したところ、ダライ・ラマは「不要な苦しみを作り出すことだ」と答えました。
「病や老いといった苦しみは、避けられません。しかし、私たちは自分でわざわざ、不要な苦しみを作り出すことがあります」
自分を曲げて行きたくない場所に行くこと、会いたくない人に会うことは、いくらでも避けられる不要な苦しみでした……。

異性との関わり方以外にも、自分で自分を苦しめていることは、きっと山のようにあります。
生まれ持った性格を変えることは難しいですが、この「不要な苦しみ」は少しずつ捨てていけるはず。
悩んだりもがいたり迷ったりしながら、私は私なりの幸せや生きやすさを追求していけたらいいなぁ……。

好きなだけ食べればよい

さっそく月1更新の決心を破ってしまいましたが、まぁそれはそれということで…。
あまりきちんとしたブログを書こうとすると挫折するため、これからはもう少し砕けた感じのブログにしていきます。
過去の記事は2~3時間くらいかけて書いていたので(^◇^;)

タイトルの「好きなだけ食べればよい」ですが、最近思い当たる節がありましたのでちょっと書いてみようと思います。

この「好きなだけ食べればよい」という言葉は、過食が止まらず入院した患者さんに対して、森田先生が言った言葉です。
「過食が止まらない」と悩む人に「好きなだけ食べればよい」とは、森田という医者はアホと違うかと感じるかもしれませんが、患者さんは森田先生の言葉に従って、実際に過食が治りました。

この方の過食が神経質から来ている過食だったため、森田先生の言葉で治ったのであろうと思います。
神経質でない方や、身体的な病気によるものだったら、こうはいかない。

おそらくこの患者さんは、「食べすぎてはいけない、健康な食生活を心がけねばいけない」という、神経質特有の高すぎる理想をお持ちの観念的完全主義者だったのでしょう。
自分の欲望や感情を頭で「してはいけない」と抑えようとすると、ますます欲望や感情は強まります。
これが森田正馬の言った「思想の矛盾」です。
思惑と現実は反対になるということです。
この方は、食べすぎてはいけない、健康な食生活をしなければいけないと思えば思うほど、食べ物への欲望がどんどん強まっていき、理想とは正反対の過食になってしまったのでしょう。

それに対して森田先生は、「好きなだけ食べればよい」と言いました。
なぜ好きなだけ食べればよいのか?
それは、体には自然な調整作用が備わっているからだろうと私は思います(私が読んだ本には詳しい説明が書かれていなかったので、憶測です)。
甘いものが食べたかったら食べればよかろう。
油っこいものが食べたかったら食べればよかろう。
そんなに心配しないでも、大量に食べれば必ず胸焼け・胃もたれを起こします。
そうなったら、「もう甘いものはしばらくいらない。さっぱりしたものが食べたい」となることでしょう。
森田先生は体の自然な作用を信頼していたのですね。

これに対して、神経質者は自然を信頼していない。
自然のままにしておいたらきっととんでもないことになると思い、自分の意思や考えによって自然を操作しようとする。
その結果どうなるか?
立派な神経質症の出来上がりです。

私が森田先生の「好きなだけ食べればよい」という言葉に合点がいったのは、私自身が、最近甘いもの断ちをしようとして逆に過食になったからです。
ダイエットと節約の両方をかねて「お菓子などの間食は禁止!」という決心をしたのです。
しかし実際に始めてみると、間食禁止のスローガンを掲げる前よりもひどい過食に陥りました。
インターネットでひたすら甘いものの画像を検索したり、スイッチが入ったように大袋のチョコレートとドーナツを買いこみ、貪り食いました。
自分の食欲、特に甘いものへの異常な執着があまりに恐ろしく、もう自分では太刀打ちできない!と思い、神様に「助けてください」と祈りました。

その結果(なのかどうかはわかりませんが…)、間食はやめられませんでしたが、過食は止まりました。
間食禁止を諦め、好きなだけお菓子を食べるようにすると、毎日1~2個のお菓子で満足するようになり、あのスイッチが入ったような「過食衝動」は無くなりました。
結局、間食を禁止する前の状態に戻ったわけですが、体に悪いほど太ってるわけでなし、日々の生活に困るほど貧乏なわけでなし、というわけで欲望に屈服しました…いや、自然に従いました(^_^;)
そんな出来事があって、私は「ああ、森田先生の『好きなだけ食べればよい』とはこういうことだったのかなぁ」と自分なりに思ったわけです。

森田療法って何となく、「食べたい気持ちはそのままにして、目の前のやるべきことをやれ」とか言い出しそうなイメージがありますが、全然そんなことはない。
本を読んだときはよく意味がわからなくても、日常生活で「あっ」と急に気づく瞬間があるのも、森田療法のおもしろさの1つです。


ちなみにですが、私は最近ちょっと森田療法離れをしております。
いい意味での森田療法離れです。

2ヶ月ほど前、森田療法のセラピストの先生に、「私は森田療法キリスト教に関する本ばかり読んでいるのですが、視野が狭くなってしまうのではないかと不安です。興味がない本にも手を出してみるべきでしょうか」と質問をしました。

今思い返せば、「視野が広くなければいけない、色々なものに興味を持たなければいけない」という思考が丸出しの質問ですね(^◇^;)
質問をしたときはそんなこと全然気づいていなくて、大真面目だったのですが。
これに対する先生の答えは「好きなだけ森田療法キリスト教の本を読めばいいんじゃないですか」というものでした。
そのうち自然に他の本も読みたくなりますよと。
そう言われて、そんなもんかなぁと思いながら森田療法を読み続けていましたら、さすがに若干飽きてきて、他の本が読みたくなりました。
もともと生き物が好きなので、この頃は動物に関する本をよく読んでいます。
森田療法の本を読む頻度は減っても、私の人生自体が森田療法を体現できるものになればいいなぁと思います。
遠藤周作が「沈黙」で書きたかったのってこれなのかなぁと、今これを書きながら合点がいきました。

森田療法と私

私が森田療法を知ったのは、今からちょうど1年前の2015年12月のことである。

当時の私は、不安や嫉妬、利己的な考えに非常に苦しんでおり、それらをどうにか取り除こうと必死にもがいていた。
Twitterでしきりに「どうして私はこんなに醜い感情ばかり抱いてしまうのか」、「こんな感情を抱いてしまう自分自身が嫌だ」、「我執が捨てられず苦しい」と呟いていた私に、あるフォロワーさんが森田療法を紹介してくれたのである。

森田療法」という名前は聞いたことがあったが、実際にそれがどういう療法なのか、私は全く知らなかった。
「我執の病理」という北西憲二先生の本が、私が最初に手に取った森田療法の本である。
我執の人(=肥大した自己愛の人)の特徴について詳しく書かれており、「これは私の説明書だろうか」と思うほど、それは自分によく当てはまるものだった。

それから私は、森田療法にどんどんのめり込んでいった。
今年の1月に「自覚と悟りへの道―神経質に悩む人のために」という本を読んだときの感動と解放感は、今でも忘れない。

不安、恐怖、嫉妬、怒り、羞恥、寂しさ……
上記のような、世間一般で「悪」と見なされている感情は、実は悪でも何でもない。
そもそも感情には善も悪もなく、浮かんでくる感情はすべて自然であり、必要なものである。
人間が自然を自由自在に制御することはできないように、感情も自分では制御できないものなのだ。

制御できないものを、制御できるはずだと思い込み、制御しようとする。
この「不可能を可能にしようとする」努力こそ、私の苦しみの根源であったのだ。

自力で空を飛べるようになろうと努力する人間を見たら、「そんなことできるはずがない」と誰でも思うだろう。
だが、「集中力を高める」だの、「意志を強くする」だの、「不安や恐怖を消す」だの、感情面の努力についてはどうだろうか。
頑張れば集中力は高められるし、意志を強くできるし、不安や恐怖を消すことができると思っている人は多いのではなかろうか。
(事実、私も森田療法を知るまではそう思っていたのだ)

森田療法を学んでも、不安は取り除けないし、嫉妬もするし、寂しさは依然としてあり続ける。
けれども、そういう気持ちを抱えたまま、充実した、建設的な人生を歩むことができるようになる。

私は家にいるとどうにもだらけてしまい、ブログのような長文を書くことがなかなかできない。
しかし、そんな自分を意志の力でどうにかしようとは思わない。
「自分にはそういう傾向がある」ということをただ認めて、「家で書けないのなら外で書けばいい」と、今、近所のカフェでこのブログを書いている。

集中力や意志の強さを自分で変えることはできないが、環境や行動は自分で変えることができる。
これも森田療法の実践の1つ。

このブログでは、日々森田療法を実践していくなかで感じたことなどを主に書くつもりである。
また、森田療法以外にも、生きづらさからの解放につながるもの、自分がいいなと思ったものについては積極的に書いていきたい。